宝塚歌劇団の会見を観てから、宝塚歌劇団に関しての一連の報道や、さまざまな方々の考えを目にしました。
今、私が一ファンとして思うのは、自分が宝塚歌劇団に対して「もやもやしている気持ち」に決着をつけずに、「私は星組の、礼真琴さん舞空瞳さんのファンだから」と蓋をして宝塚歌劇を観ていくことができるのか…ということです。
今日は、そんなまとまらない、取り留めのない気持ちを書きたいと思います。
不快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。ですので、この件に関して触れたくない、という方は、また次回以降のブログでお会いできたら嬉しいです。
宝塚歌劇団を「厳しく見守る」と決めたから
ご遺族の深い悲しみや憤りや言葉にならないお気持ちに思いをはせても
宝塚歌劇団が本気で改革に臨んでいるのかに思いを巡らしても
結局は、一ファンは外野であり、それを見守ることしかできない立場です。
でも、宝塚歌劇団は、その数えきれないほどの「ファン」が居て成り立つ世界でもあります。
宝塚歌劇という唯一無二の世界と、ファンが一体となって成り立つ世界。
そうして、今まで110年続いてきたのだと思います。
そんな、劇団とファンがともに支え合い連綿と続いてきた110周年の歴史が大きく揺らいだ重大な事件。
そして、その時代にリアルタイムで立ち会っている私たち。
一人ひとりが「宝塚を愛しているからこそ」この状況に、悩み苦しみ自分なりの「折り合い」をつけて宝塚歌劇というものと付き合っている今です。
情報が溢れ、意見が入り乱れ、収拾がつかないほどの状況に陥っています。
誰に対しても互いに「~すべき」と言える立場ではないのは前提です。
誰も「誰かを裁くことはできない」。
ですが、宝塚歌劇の行方を「厳しく見守る」と決めた一ファンとして、今のタイミングだからこそ気持ちを少しだけ書いておきたいと思いました。
宝塚歌劇団に対する、強烈な「違和感」の正体
私が、強烈に違和感を覚えたのは、宝塚歌劇団とご遺族側が合意に至り、宝塚歌劇団の今後の対応として、パワハラを行った劇団員の処分には触れずに「宙組を現体制で再開する」という意思だけが発表されたこと。
阪急を始め、上層部の減給などには触れられていましたが、パワハラを行ったとされる劇団員に対しては、「ただひたすらに庇う」という姿勢でした。
「それがパワハラだと教えてこなかった、自分たちが悪いのだ」と…。
これに、私は社会人としてとても違和感を覚えた。
ですが、この強烈な違和感を20数年の宝塚ファンでも感じるのですから、世間からはもっと理解に苦しむ世界に映っていると思うのです。
この一連の対応に対して間違いなく世間は、宝塚歌劇団を「強烈に違和感を覚える世界」として認識するでしょう。
そのことで、長い目で見ると「宝塚歌劇が存続していくことが難しくなる状況」に陥らないかと感じるのです。
この事件が風化するのを待つ、ということなのでしょうか。
私は、この一連の出来事によって具体的な「パワハラ」とされる行為が明るみになり、それが「芸の道は厳しいから」というだけで説明ができるとは、到底思えませんでした。
パワハラを行った劇団員は、これだけ舞台に立てていないというだけでも「謹慎」ということで「処分」という扱いなのかもしれない。
ですが、これだけの情報が明るみに出た今、たとえ宝塚歌劇団が夢の世界であったとして、タカラジェンヌが「フェアリー」であったとしても、もうその幻想だけで通すことはできなくなりました。
だからこそ、人としての「筋を通す」ことは大切なことだと思います。あり得るとしたら、再出発はそれからです。
謝罪の方法が「手紙」であったこと
謝罪の方法が「手紙」であったこと自体は、私はそれほど違和感を覚えませんでした。
理由は下記です。
- パワハラを行った劇団員が直接ご遺族に会うことによる、ご遺族の精神的負荷は計り知れないこと
- 手紙であれば、謝罪の内容が明確に残ること
- パワハラを行った劇団員の正直な気持ちを吐露しやすいこと
このなかで、私が最も感じたのは「ご遺族側がパワハラを行った劇団員に決して会いたくはないはず」ということです。
仮に、実際に対面して謝罪したとして、気持ちが軽くなるのは謝罪した側だけ。
謝罪を受けた側は、どんな顔をして、どんな言葉をかければよいのでしょうか。
残酷です。
私は、手紙であったことには、ご遺族側への配慮の意味も相当にあると思いました。
宙組の再開について
私自身は、宙組の作品をいまだにまともに観れません。
一連の出来事が、重なって見えるため夢を観ることができない。壮絶な背景を想像したくなくても、それが透けて見えてしまう。
そういう気持ちになってしまったことは悲しいですが、仕方のないことです。
もし仮に自分が大好きな組で起こっていたとしたら…
もしこれが大好きな星組で起こったことであったらどうだったか…、と考えない時はありません。
宝塚を愛する皆さんもきっと、一度は、大好きな方や組を重ねて考えられてことがあるのではないでしょうか。
今、私は改めて想像した。
きっと大好きだからこそ、適切な謝罪方法でご遺族に心からの誠意を見せてほしいと思うだろうし、これほどまでに世間を騒がせ悲しみ、失望を与えたことに対する「筋の通し方」を、個人個人が決断して「けじめ」をつけてほしいと感じるのではないかと思います。
それが、もし宝塚歌劇団を去る、という悲しい結果になったとしても、組の形が変わってしまうことになっても受け止めるしかない。
もし、そのまま宝塚歌劇団に在籍し続けるのであれば、個人個人の「けじめ」をしっかりと示してから再開してほしい。
そう思うだろう、と想像しています。
皆さんは今、どのようなお気持ちでしょうか。
「現体制での宙組の再開」については、私のなかで「違和感を覚えた」ところで止まっています。
それ以上でも、それ以下でもありません。
これからも、大好きな礼真琴さん舞空瞳さんへの変わらない気持ちを大切に抱きながら、宝塚歌劇団がどのような道に進むのかを見守るつもりです。
次回からは、普段通りのブログに戻れたらと思います。
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